永正寺副住職 中村建岳が、法話を推敲する過程で考えたことや、日頃感じていることなどを、そのまま素直に表現するブログ。

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忌み数について仏教の考え方

2014.2.15

昨日はバレンタインデーでしたが、
全国的に雪がふり

永正寺のある愛知県江南市もお昼過ぎまで真っ白になっていました。

「ホワイト・クリスマス」ならぬ、
ホワイトバレンタインデー」だと誰かが言っていましたが、


すると、来月の3月14日に雪が降ったら

ホワイトホワイトデー」というのでしょうか!?


それとも
Wホワイトデー」ですか?

携帯料金みたいですf(^^;)



ところで今日、2月15日は仏教でいえば、
お釈迦さまが亡くなられた(涅槃に入られた)になりますので、
軽口をいっているといけないのかもしれません。


さて、バレンタインデーは、
聖ウァレンティヌスが殉教された日ということですが、
イエス・キリストが亡くなられたのは 「13日の金曜日」 です。


と映画か何かの影響で思い込んでいたのですが、


調べてみたら、
諸説あるようですが、13日ではないようです


13」というのは、キリストを裏切ったユダを「13人目の弟子」と数え、
13」を不吉なものとして嫌う(忌み数)ことで、

13人でも、13個でも、13日でも何となく嫌な気がして、しかも金曜日が重なると・・・。
ということみたいです。


私たち日本人も
もともと?「」を連想させる「4」や「42」を忌み数として
避けたり嫌うことが多いです。


私も子どもの頃
4」も「42」も、そして「13」もとても怖ろしい数字だと思っていて、
ある教科書か何かで見た絵がとても印象的でした。

それはたぶん中世のヨーロッパの場面で、
食事か何かの会合で、たまたま13人であることに気づいた参加者が、
「この参加者のうち誰かが一人死んでしまう

と恐れおののいている絵で、


それほど「13」は怖ろしいのだと思ったものです。



大人になり、今、
仏教の教えだとどうなるだろうと考えたりします。


13人いることに気づいて、
誰か一人死ぬことになると恐れる人に、仏教はどんなメッセージを送るのか




「安心してください。13人のうち、
 13人全員もれなく死にますよいずれ

 恐れることなく、今を生きなさい!」







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コメント
No title
今晩は。
 今から書くのは、禅宗の事では無く、ある、浄土真宗の、お坊さんが何かに書いていた事を思い出してなのですが、

 葬儀屋さんによって取り仕切られる、ある意味土俗的、或は日本的?な、風習、因習、仕来たり、と、それに基ずく作法、ルールについての苦言が述べられており、

 少なくとも、真宗の葬儀のときには、(死を忌むべきもの、不浄のものとしてとらえる)お清めの塩や、友引を避ける等の慣習を一切持ちこまないでほしいとのことでした。

 「死んだ貴方の御爺さんの霊がもし本当にいたとして、かわいい子孫である貴方を、死での旅路の道ずれにしてやろうと考えると思いますか?御爺さんにたいして失礼でしょう。」

 これを読み私は、名状し難いものへの恐れと言うのは世界や自然に対する敬意となって現れる部分もあるので、何から何まで、異界的な領域を排除するのは如何なものかと多少の抵抗感がありますが、それでも、その理性的な在り方に納得した事がありました。

 ただそうであるだけのものに、命名したり、意味付けしたり、因果というものを求めるのは、人間の都合上の事ですものね。忌み数というのもそうなのでしょう。

 あまりに理性的では味気ないと、感じるなら、悪い方では無く
めでたいとされる数字の組み合わせで遊ぶのがいいかと思います。
2014/02/19(水) 02:01 | URL | y.k #-[ 編集]
忌み数
ご無沙汰いたしております。大雪ではご難儀されなかったでしょうか。
もれなく死にます、これに尽きると思います。すばらしいお話です。自分も含めた「人の死」は辛く悲しいものですが受け入れざるを得ないこと、他を犠牲にしてまで少しでも長く生きようとするか、そうでないかでは大きく違うと思います。



しかし近代的な大病院の窓口に4番と9番がなかったりすると、なんとなく好感をもってしまいます。
2014/02/25(火) 18:49 | URL | あやみ #-[ 編集]
もっともっと、今を生きたいです^^
 お久しぶりです♪
 やっと時間ができたので、こちらへ真っ先に伺い、新しい順に拝読しはじめた矢先な私ですが、さっそく、1つ目の記事で、もう書き込みさせて下さい~///

 Wホワイトが携帯っぽい、に、爆笑しました^^

 私は、20年以上、アパートの新築などに関わる仕事もしていたのですが、あやみさんの書き込みを読んで、『そういえば、20年前のアパートは、4Fや104号室がないのが当たり前だったけど、すっかり、ここ十年以上、バリバリある物件ばかりになってるなぁ』なんて思い当たりました☆

 うちの子の悩みを聞いていて、昨日も、今日も、『健岳さまのおっしゃる、暑いは暑いままにしておけ、っていう境地を、全然子供に伝えられないなぁ。私が不甲斐ないからだろうなぁ』と、反省しておりましたが、
 このお話を読んで、
  ~するな、という禁止じゃなく、
  恐れず、今を生きろ、という肯定的・短い・力強い点が大切なんだな、と教えていただけました。
 まず、自分の襟をただして、子供にも、どうにか伝えたいです。
 いつも、すばらしいお話をありがとうございます(ぺこり)。 
2014/02/27(木) 14:57 | URL | 多聞あろ #4n3Myn9Y[ 編集]
Re: No title
y.kさん
コメントありがとうございます。

なるほどです。勉強になりありがとうございます。

何もかもが合理的になりすぎて、
文化やしきたりや習俗のようなものが無くなってしまうことは私自身も、違和感や抵抗感がありますが、
その理性的なあり方に、なるほどと感心させられますね。

仏教は、おそらく、
そのような人間が作り出したものにとらわれるのではなく、

それよりも現実のさま、現実のありのままを優先する立場、
理解しようとするものなのではないかと思っています。


あたかも現実を超越するような勢いで信じ込み、うろたえ苦しんでしまうことのではなく、
現実優先をはっきり意識した範囲であれば、
良いのではないかな?と思います。

まさに遊ぶ余裕が大切ですね!
2014/02/27(木) 17:03 | URL | 建岳 #-[ 編集]
Re: 忌み数
あやみさん
コメントありがとうございます。

こちらこそ、ご無沙汰しております。

私たち人間は、つい嫌なことや悪いことから目をそむけ、
素晴らしいこと(都合のいいこと)だけを追い求めてしましがちな存在ですが、

仏教は、最悪である現実を覚悟する心持ちを獲得することで、
悟りの境地を目指すものなのかと思います。

「一切皆苦」、「四苦八苦」は
まさに苦しみだらけなこの現実世界のさまを説いていますね。


ただ、私は未熟者ですので、
未だに4も9も13も、一瞬、ドキッとします。

精進いたしますm(_ _)m
2014/02/27(木) 17:14 | URL | 建岳 #-[ 編集]
Re: もっともっと、今を生きたいです^^
多聞あろさん
コメントありがとうございます。

こちらこそお久しぶりです。
私も最近ほとんど更新ができておりませんで、

ぼちぼちと再開を試みていきたいと思っています。

今は、
永正寺での活動や、永正寺の外部の組織などへの働きかけ、
人脈づくりなどを心がけて取り組んでいるような毎日です。

私自身、ブログに書くだけでなかなか行動が伴わないのでおこがましいのですが、
私なりに頑張っていこう思っています。

これからもどうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m
2014/02/27(木) 17:24 | URL | 建岳 #-[ 編集]
No title
 度々失礼致します。
 あたかも現実を超越する様な勢いで信じ込み、苦しむ。
建岳氏が、宗教の狂気、危険性について指摘して居られるとおりですね、

 またまた禅宗の事でなく申し訳御座いませんが、
前の私のコメントにあった真宗のお坊さんが言った事ではないのですが、

 ある宗教関係の本に、絶対者と人間の関係において、自分の矮小さを知り絶対者への完全なる帰依を説く一神教、
(人間の善行や努力如きでは天国には入れない、そもそも、絶対神に救済してもらおうと取引をしようと言う心根が涜神的である。救済はただただ神の恩寵によるものであり、ただただそれを信じ帰依するのみである。)とする信仰と、「他力本願」は似たところがあると言う事が述べられており、

 それへの反論に近い事が述べられていたある文章を思い出しました。

 確かに、きっかけは弥陀に導かれて、救済を希うが、ただただ、念仏をとなえる、唱え続けているうちに、
救済をしようとする阿弥陀と、希う自分との間に自と他の区別が無くなり、弥陀は自分そのものだと言う境地がある。
(自分だけがある。そして、自分も無ければ他人も居ない、居ないのだから、自と他を隔てる必要はない、比べる事もない。すべて等価である。)
 究極的他者であり絶対者である唯一神に対する帰依とは異なりやはりそこは仏教なのだなと思いました。
関係無い事を色々書いて申し訳御座いませんでした。

 私もあやみさんが仰るように病院で4や9を使わないのは好感が持てます。
2014/03/02(日) 16:45 | URL | y.k #-[ 編集]
補足
 上に書いたことは、あくまで、浄土真宗の事です。

 兎に角そんなに硬くならなくても(と言いつつ硬い事を書いてしまいましたが、)
 そこら辺を分った上で、融通を効かせて遊ぶ余裕があれば不必要に角を立てなくていいですね。
2014/03/02(日) 21:53 | URL | y.k #-[ 編集]
Re: No title
y.kさん
コメントありがとうございます。

仏教と一神教との
「完全なる帰依」の微妙な違い。

興味深いですね。

一神教でも、
マザーテレサさんであれば、無心というか、無我というか、
神の意志のみがあって、自分も他人も居ない。

ただ困った人を助けるのみとなり、
それぞれの究極の境地は、とても近いのではないかと思えます。


その究極の境地を目指す過程の方法が、
それぞれ異なり、

そして、圧倒的多数の人がその究極に達しないレベルで、
その究極を理解しえないことが原因で、
様々な宗教の「危険性」が発生するのではないかと思っています。


究極に達しないレベルでの安全性が
仏教が非常に高いことが、実は大きな特徴ではないかと感じています。
2014/03/14(金) 09:53 | URL | 建岳 #-[ 編集]
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