永正寺副住職 中村建岳が、法話を推敲する過程で考えたことや、日頃感じていることなどを、そのまま素直に表現するブログ。

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自分に素直になり辛い社会

2013.6.29
⇒前回からの続きです。

狩猟採集社会、部族社会など数十人から数千人規模のいわゆる
「 伝統的社会 」では、

表裏がなく、
常に自信に満ち溢れ、生き生きと自分らしく生きている人が多いようです。


例えば、小さな幼児
大きなナイフをもって遊んでいても、

母親は注意をしないばかりか、

その子どもがナイフを落とした時に、
何の躊躇もなく、その落としたナイフを拾いあげ
当然のことのように、子どもに返します


私たちなら
危ないから、持っちゃダメ! 」
怪我したら、どうするの! 」
と叱ったり、

子どもが泣いてぐずろうが、
手の届かないところにナイフを隠してしまいます。



「 伝統的社会 」では、
そんな子どもの時の危険な遊びが原因の、
大きな傷跡欠損がある大人は珍しくなく、

場合によっては事故で亡くなる子どももあるようです。


まるで、
子どもの頃の遊びの危険を乗り越えるぐらいでなければ、
大人になってから厳しい自然の中を生きていけないと覚悟を決めているのか

自らの経験でしか
危険を学習していくことができないと腹をくくっているのか?


このような
「 伝統的社会 」で成長した人は、
メンタルヘルスが良好で、

生き生きと自分らしく生きている。



また、一般的に、
戦争のさなかでは、
心の病気にかかる人が少なくなると言われています。

なりふり構わず、生き残ることが第一
四の五の言ってられない。

生存本能や危機管理能力を最大限活性化させ、研ぎ澄ませて生きていく。



自分に素直になればなるほど、
本能を活性化させればさせるほど、

メンタルヘルスは良好になるようです。
(社会への悪影響の面はひとまずおいて)


そして、
建前理想ばかりが肥大化して、
「 もうひとりの自分・無意識 」が素直になれないほど、

あるいは、
理想ともう一人の自分との乖離が大きければ大きくなっていくほど、
心の苦しみ、葛藤は増大していくのではないでしょうか?



つまり、
その社会やその集団から求められる人間像によって、
私たちのメンタルヘルスは大きく影響を受けるのです。



考えてみれば、
法律、倫理、道徳、モラル、人権いじめ、体罰、安全、セクハラ、パワハラ、、、


今ほど、これほど立派で素晴らしい人間像を求められる世界は、
人類が誕生して以降、全く初めての経験なのです。



少なくない人たちが、

あるいは、多かれ少なかれ全ての人が、
心の苦しみを抱えてしまうのは、


ある意味、
必然のことなのです。
<続く>




※当然のことながら、このブログはあくまで私の個人的な解釈です。

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コメント
No title
失礼致します。
「例えば、ちいさな幼児が、、、」のくだりを読んで、
以前読んだ、戸塚ヨットスクール校長の戸塚氏の著作を思い出しました。「
理屈」を学べば身につくものや、「暗記」すればいいもの、「努力」で何とかものになるもの、は、いいとして、「それ以前の問題」として、それだけではどうしようもない「素質」や「センス」の様な「感覚、感じ、」と言った「頭」で無く「体得」しなければ身に付かないものは、(まさに、考えるな!感じろ!ですね。)残念ながら柔軟性を失った大人の年齢になってしまえば、身に付けようにも手遅れなんです。せいぜい「小学校高学年」ぐらいまでの年齢に遊びを通して自然に身につけるのが理想でしょう。という内容だったと思います。
彼の教育論すべてに賛成できるわけではありませんが、
人間が「野生を失った」事でひ弱になったと言いたいであろうことはよくわかります。
もちろん伝統社会ではそれを「研ぎ澄ませて」生きなければ、生き残れなかったのでしょう。
それと、
「戦争のさなかに、心の病気にかかる人が少なくなる」のもなんとなくわかります。
例えば、そんな状態におかれた人が、
「自分の存在理由は何だろう、存在価値はあるのだろうか、何のために生まれたんだろう、何のために生きているのだろう、(生きなければならないのだろう)自分は何なんだろう、死とは何なんだろう(どうせ死ぬのになぜ価値基準を作り、文化を作り、それを維持するたゆまぬ努力を続けるのだろう)」
といった人生の意義、意味といった問いを、
「考えるはずがない。」
リアルにギリギリの生命のやり取りが燃え上がる現場にいるからその様な事も、観念の中では無く現実として答えを体得してしまうのでしょう。
「なりふり構わず生き残ることが第一。」
もちろん、そんな現実に身を置くのは嫌ですし、平和は素晴らしいと思うし、いかに自分が文明の恩恵にあずかっている事か改めて思い知らされ感謝ですが。
どんなものにも反面と言うものがあり、副作用があるのですね。
「これほど立派で素晴らしい人間像を求められる世界は、、、」
のくだりを読み、果してこれほど窮屈な制約があって、(皮肉な事に、伝統社会からの呪縛を振りほどき、制約の無い制度を作ろうとしたはずなのに、)求められる通りの「素晴らしい人間像を体得した人間」が現れるのは可能なのか疑わしいと思うのです。
どう見ても、下品な言い方をすれば、ケツの穴の小さい、
ケチくさい、度量の狭い、おおらかさの無い、非寛容な、
スケールが小さく、小さくまとまった小人物、木っ端役人、
といったイメージしかわかないのです。
ここでも、求めすぎた結果の本末転倒を見る事が出来そうです。
2013/06/30(日) 23:14 | URL | y.k #-[ 編集]
Re: No title
y.kさん
コメントありがとうございます。

まさに、
私たちが良かれと思って努力し築きあげてきたことの副作用だと思います。

今の風潮は、
良いことばかりを追いもとめれば、まるで全てが良いことになるかのような、
悪いこと問題点を見つけ出し改善し尽くせば、問題が一切無くなってしまう世の中が出来上がるような、

そんな幻想や願望をもってしまっているかのような世の中です。

しかし、
良いことも悪いことも表裏一体、一つの現象や物事について、光の当て方を変えるだけ見方を変えるだけで、違って見えてしまうだけのことなのです。

その不可分の二面性についてしっかりと理解ができなければ、
まさに本末転倒、自分の尾をずっと追い続けて回り続ける犬のような、延々と終わらないもぐら叩きの堂々巡りのような、
そんなジレンマに陥ってしまうのだと思います。

人間の心の現実を踏まえた、堂々巡りに陥らないような改善とは何か?
を考え深めていくべきだと思っています。
2013/07/02(火) 08:03 | URL | 建岳 #-[ 編集]
No title
建岳さま こんにちは。

我々が掲げてしまった「立派ですばらしい人間」像に問題が潜んでいるのではないでしょうか。

これはまさに近代国家に求められる「理想の国民」でしかないのだと思います。日本に限ったことではありません。法を遵守し、社会秩序に沿う。よく働きよく納税する。そのためによく学び、品行方正、決して反抗しない。

これに適応したものは国家からより多くの恩恵が受けられます。逆にこれに反してしまうと国家から処罰され、あるいは阻害されます。そして恩恵や処罰の媒体は「金銭」だったりするのです。「信用」を得たり失ったりもあるでしょうが結局は金銭に集約されます。ここが落とし穴です。

自分に素直になろうとしたときに、よいことと悪いことの線引きをどうするかが重要なのだと思います。そこで国家や法律に打診するのか、あるいは神仏に伺い立てをするのかで精神に及ぼす影響は大きく変わると思います。伝統的社会では洋の東西を問わず後者だったのでしょう。

この世の闇はなくなりませんね。それと向き合うことが大事なのでしょう。

2013/07/03(水) 21:16 | URL | あやみ #-[ 編集]
Re: No title
あやみさん
コメントありがとうございます。

「立派で素晴らしい人間」像の問題、
まさにその通りですね。

そして、現在のグローバル社会では、
その美名に、多くの人が踊らされ、苦しみを抱え、

その裏で、極一部の人たちが富を独占していくという、
非常に深い闇の中にいると感じています。

ほとんどのことは、
最終的には経済原理にいきつきますね。
エジプトは一体どうなっているのでしょうか?

闇に向き合い、現実に向き合うこと。
心がけていきたいと思っています。
2013/07/04(木) 12:38 | URL | 建岳 #-[ 編集]
いつも、自分を振り返れる貴重な機会を与えてくださり、有難うございますm(__)m
 この記事を拝見していて、「ああ、今、自分は、無意識で自分を守りたい、かばいたい気持ちと、 良き母として、子供を的確に指導すべきという立場の間で、葛藤しているんだなぁ」と、今の自分に気づけました。

 うちの子には、「親にも弱さや欠点がたくさんある」ことを認められる度量がまだありません。

 それは娘が若いからで、仕方ないのですが、私は相当苦しかったみたいです。

 建岳さんが、この記事で、無意識がどんなに見苦しいものに見えても、普通で当たり前のこと、と、大らかに温かく、許してくださっていることに、すごくほっとしました。

 お陰さまで、自分が許せるようになりました。子供に理解されないつらさも、やわらぎました。

 今から、娘にメールして、無理しない程度に活路を模索します。

 いつも冷静に導いてくださり、本当に感謝しておりますm(__)m
2013/07/09(火) 17:32 | URL | 多聞あろ #4n3Myn9Y[ 編集]
Re: いつも、自分を振り返れる貴重な機会を与えてくださり、有難うございますm(__)m
多聞あろさん
コメントありがとうございます。

私の未熟なところをそのまま、
恥ずかしげもなく表現をしてしまっていますので、
申し訳なく思います。

私の場合は、「僧侶として」という意識が重しとなり、
だんだん息苦しくなって、

そして、自分では思ってもいないような形で
(自分では気づかないうちに)
表に出て、周りの方に迷惑をかけてしまったのです。

その経験から、
今の世の中、人としての理想や目標がたくさんあり、
そして、それを目指していくことはとても大切なことですが、

一方で現実の自分自身に向き合って素直になることも、
決して無視はできないことなのだと実感しています。

そのバランスなど、
なかなか難しいですねf(^^;)

多聞あろさんの実際の場での解決法とその模索。
とても貴重だと思いますし、参考にさせていただきたいと思っています。
2013/07/11(木) 16:52 | URL | 建岳 #-[ 編集]
No title
失礼致します。
以前より建岳様が折に触れ指摘された事や、この記事での皆さまのコメントを読ませて頂き思ったのですが、
「正しく現実を観る」と言う、この「現実」こそ、何の解釈も無い、価値判断も無い、ただそのようにあるだけ、「あるがまま」、であり、「素直」そのもの。当然、乖離や葛藤は無い。本来の人間は、その立ち位置(と言っても常に動き続けているものですが)が、現実からあまりずれた所には居なかったのでしょうね。
一方で意味付け、意義付け、解釈、分別、カテゴライズ、定義、命名、レッテル貼り、というのが出来るのも人間の素晴らしいところだと思います。
ただ然し、そうして出来上がる「観念、価値観、」によって、それを基準に比較し裁いてしまうのは、仰るように、
「正しく現実に照らして観ていない。」「ある意味人間の善意も悪意も紙一重のところにある。」「一つの現象や物事の光の当て方、見方を変えるだけ。」
と言う事になかなか思いが至りにくいからでしょう。
しかし、これまた現実に社会を運営していくには、皆の共通になる了解事項の前提としてのルール、作法、常識、等、物差しが必要になる。
あやみ氏が仰るようにそれをどこに持ってくるかが非常に重要ですね。
あやみ氏の仰る、「結局は金銭に集約される」と言う事は、近代以降より今の物差しは、「効率と生産性と言う価値観を疑うことなく生活する」のが、為政者にとっての都合のよい、「良き市民」と言う事になりましょうか。
だんだん主題からそれてしまいましたが、
以前私のコメントにたいして建岳様より御返事いただいた内容に、
仏教の始まりの頃のことが出てきましたが、(新興宗教の出家信者の家族の家族奪還運動を念頭にしての私のコメントでしたが)あの後調べてみると本当に、儒教側からの批判があったと知りました。
釈迦国が危機に陥った時、一旦は出家を解いてでも、国の先頭に立って軍を指揮して戦うべきではなかったかと言う事だそうです。
一国の皇太子と言う立場を捨てると言う事が その責任も含め、どれほどの事だったのか。
その人の状況、生まれからくる「その社会から求められる人間像」立場と、その人がどうしたいのか、というその人の本文と言うべきものに大きな乖離がある時、、、、、、。
自分ならどうするだろうか。誤魔化さずに貫けるだろうか。
難しいと思いました。
2013/07/13(土) 23:34 | URL | y.k #-[ 編集]
Re: No title
y.kさん
コメントありがとうございます。
ご返事遅くなりまして申し訳ありませんでした。

人が社会的存在として生きていくことは、
その社会が複雑で高度であればあるほど、

本来の人間の本能から離れ、
知らず知らずのうちに非常にストレスを蓄積しやすくなってしまうと思います。

私たちは、
暮らしやすく安全で便利な社会の一員になることと引き換えに、

その社会の本質的な経済原理に翻弄され、
その社会の一員たるために様々な役割を躾け鍛えられ、演じ続けているようなものでしょうか?


苦しみからの本質的な解脱を説く仏教が、
その社会との関わりを出家という形で絶つことから始まっているのは、
まさしく必然だと思います。

私自身、率直に申し上げれば、
現代日本社会における僧侶という役割について、
求められる姿、あるべき姿について意識し、

ある意味、演じているのだとも感じています。

この現代社会で自分らしく生きること。
難しいのですが、工夫しながら取り組んでいきたいと思っています。
2013/07/17(水) 13:59 | URL | 建岳 #-[ 編集]
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