永正寺副住職 中村建岳が、法話を推敲する過程で考えたことや、日頃感じていることなどを、そのまま素直に表現するブログ。

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すべての人にとっての無縁社会

2012.11.19

数年前、
何気なくNHKの番組を見ていたら、

無縁社会 」を特集していました。


私は、当時、
「 無縁社会 」と言えば、
高齢者 ひとり暮らし になってしまって、

近所、地域とのつながりも無く、
ひっそり
孤独死 」をしてしまうことだけだと思っていました。


現在でも
その問題の状況は変わらず深刻ですが、


その番組の切り口は、
30代(20代)の女性にスポットをあてていました。


若い人でも無縁社会なの? 」
驚きながら見てみると、

都市部に住むその若い女性
子どもを出産されて、

いろいろ育児に不安を抱えたり、
悩むことがあっても、

頼る友達相談する知り合いがいない。
親に相談するにしても電話で聞くしかなく、

心細い


都会の中で大きな不安を抱えながら
孤独を感じる

という内容で、

「 なるほど、
  昔は親と同居が多かったから、
  困ったり、悩んだりしたら
  すぐに頼れたり出来たけど、

  今の時代は、それがなかなか難しいんだ。

  若い世代でも、
  無縁孤立しているんだ 」

ととても納得したのです。


そして、
その女性は、同じような悩みを持つママ友と、
サークルを作って、

時々集まって、
おしゃべりをして、

不安や悩みを話したり、
情報交換ができるようになりました。


「 ふ~ん。同じ立場の人たちで
  集まることって、とっても大切なんだ。
  問題が解決して良かった。 」

と素直に思っていたら、


その次の場面。


私にとって
忘れられない衝撃的なシーンが展開されました。


それは、
そのサークルでは、
面白い取り組み をしていると紹介され、

会合の時などに、
会員同士で、ある人からある人に、


わざと

例えば、窓ガラス掃除などの
頼みごとをするのです。


そうすると、
窓ガラス掃除をした人が、

その後、

今度は自分の頼みごとを、
お願いしやすくなるんです!



という活動でした。


「 え~っ! 」

私たちは、
他人にお願いすること、頼むことができない

その仕方かわからない。


そうか、本当だ!
  考えてみれば、僕も凄く心当たりあるし、
  周りの皆もきっと同じだっ! 」


いや、
私たちは、むしろ

迷惑になるから、頼んではいけない 」
と思っているし、


「 自分自身が自立して
  自分自身の能力で、
  自分自身の責任で、

  周りの人に迷惑をかけずに、

  ちゃんと立派に生活をしなければならない 」


そう思っている。
強烈な強迫観念のように思っている。


確かに、
責任を持って自立して努力をすることは素晴らしいけれど、

困った時に誰にも助けを求められない私たちって。。。


無縁社会とは、
単に縁がないだけじゃなく、

お互い心の牽制をしあって、
より疎遠になってしまっている私たち


年齢や性別など関係ない、
今、日本にいる全ての人に関わる、


とてつもなく大きな問題だと
その時、気づかされたのです。
<続く>



※当然のことながら、このブログはあくまで私の個人的な解釈です。




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コメント
No title
こんにちは
本当に、今の私達は人様に何か頼むということがとても苦手ですね。人とのかかわりが薄い都会の生活は、それなりに気楽なところもありますが、孤独と隣り合わせの生活なのかもしれません。
ちょっと興味深いサークル活動ですね。
2012/11/22(木) 16:07 | URL | Sakulanbo #ZPPmqLno[ 編集]
Re: No title
Sakulanboさん
コメントありがとうございます。

そうですか。
やはり、日本だけでなく、
Sakulanboさんのところでも同じですか。


私自身、気ままで自分勝手ですし、

ひとりで気楽を求めてしまうのですが、
どこかで寂しかったりしています。

今はまだ良いのですが、
介護や病気など、困ってしまったときには、

頼るのはお金を払っての公的サービスのみかもしれません。
難しい世の中です。


それから、
このサークルのシステムを考えた人、凄いですよね~。
お寺でも参考にして活動をしていかなければと思っています。
2012/11/22(木) 21:21 | URL | 建岳 #-[ 編集]
No title
私も鍼灸学校に通っている時に、
家族に甘えてはいけない!という強迫観念が強い中、
病気に倒れました。
今ではすっかり家族におんぶに抱っこの状態ですが、
早くこうなれば身体を壊すこともなかったろうに、と思っています。
甘えられる人が居る、っていうだけで健康状態まで変ってきてしまいますよ~
2012/11/24(土) 23:15 | URL | 白い月の風 #k9MHGdfk[ 編集]
Re: No title
白い月の風さん
コメントありがとうございます。

親しい家族の中でも、
「甘えてはいけない」ということもあるのですね。

自立しなければならない責任感と、
甘えすぎて自立できないことと、

どちらもその両極端によらず、
程々が大切で、中道です。

無縁社会は、
私たちの能力以上の自立が求められる、
厳しい社会だと私は感じています。
2012/11/25(日) 14:53 | URL | 建岳 #-[ 編集]
No title
失礼致します。私も権威主義は苦手なのですが、そう云う割に毎度毎度のコメントで我ながら自分で検証したのでは無い借りてきた理屈で書いているなと思いながら懲りずにまたコメントします。
これはある社会学者が何かの時に言っていた事ですが、
 一見アメリカ合衆国は弱肉強食の完全自由主義社会に見えるかもしれない。
自然に成立した国ではなく、自分たちの取り決めで成立した人工国家であり、若い国家である。過去の因習やしがらみと決別した人が自分の能力を頼りにして生きる競争社会で有る。
と言うように見えるかもしれない。
でもそれは一面しか見ていないのです。
移民なら、ホームグラウンドからの精神的、金銭的、バックアップが有る人もいます。
無い人でも、例えば日系人なら故郷に錦を飾りたいという気持ちを、支えとして頑張って厳しい現実を耐えた人もいるでしょう。
キリスト教を軸にした宗教国家でもある。
すべてから切り離され、過去を持たない独立した個人のみで構成されている訳ではない。
(全く紐帯が断たれた人間がどういう状態になるか考えても見てほしい。)
そう言った事情を知らずに表面だけを見て取り入れようとするからおかしなことになるのだ。
うろ覚えですがこんな事を言っていました。
「自己決定」「自己責任」と言うのは、どこまでの範囲に限定されるのか、されないのか、その定義があいまいなまま使われているな、というのが私の感想です。
2012/11/26(月) 20:54 | URL | y.k #-[ 編集]
Re: No title
y.kさん
コメントありがとうございます。

何にも束縛されない自己とはあるのか?
自己決定、自己責任といっても何かに影響されている。

何を持って、どんな範囲で自己といえるのか?

ということでしょうか。
難しいですね。。。


仏教の悟りの境地とは、
自己と他がまるでその境のないような境地だと聞いたことがありますが、、、

私にとっては果てしのないものです。
2012/11/27(火) 09:26 | URL | 建岳 #-[ 編集]
No title
 失礼致します。同じ記事に対するコメントは1回にまとめて済ませたいと思いましたが、色々考えさせられる事があったのでもう一つだけ付け加えます。すみません。
 最初に断っておきますが私はキリスト教徒では有りません。
 只、学生の頃聖書を読んだ事があります。
 さて、記事の中に、
「自分自身が自立して、自分自身の能力で、自分自身の責任で、、、、」とあり、
 レスの中に、
「何を持って、どんな範囲で自己と言えるのか?」
と、ありましたが、
 悟りの境地には程遠い私ですが、かと言って、何を持って自己かと改めて問われれば、甚だ頼りないアイデンティティ―だなと思います。
 そこで思ったのが、完全に自己完結する方向で閉じていると言いましょうか、始めも無く終わりも無く、何処からかという由来もない、比較するモノもなく、何によって立っているのでもない、「何にも束縛されない、影響されない自己」とは、、、、
 聖書を読んでいて、モーセに対し神が
「『私はある』というお方から遣わされてきたと言いなさい。」
と言っていた記述を思い出しました。
 比較する対象や他者が居なくとも、己の存在を自覚している。なにはなくとも、
「私はある」
 神とは何か、若し言うなればそういうことなのでしょう。
然し、
 我々は、神ならぬ人間です。そんな強固なものではありません。一人ですべて抱え切る事など出来ません。
自立すると言っても、一人で自己完結するわけでは無いのになと思うのです。
2012/11/28(水) 22:35 | URL | y.k #-[ 編集]
Re: No title
y.kさん
コメントありがとうございます。

「我、思うゆえに我あり」など、
「自己とは何か?」哲学的に考えれば、行き着くところがあるのかもしれませんね。
結論に行きついたはいいけれど、果たして最初の疑問はなんだったのか?と訳がわからなくなることがあります。

私たち人間の思考能力は、そもそも現実を全て捉えることは不可能です。
もちろんその上で、現実を捉えるべく努力することが大切ですが、

同時に、その思考に振り回されては、現実を捉えることができません。

例えば、「宇宙の無限」という現実について、
私たちの思考能力では捉えきれないものですが、それを無理やり説明しようとすると
その説明に振り回されることになりかねません。

仏教は哲学だといわれることもありますが、
観念の中で何かを追求するものではありません。

現実とは何か? 私たちの思考や観念の現実的な限界をも含めて、
冷静に見定める「正見」をもって対峙するのです。

お答えになっているのか自信はありませんが、
私のブログ記事は、「自己とはそもそも何か?」という問いかけはしていないつもりです。
「自分の責任感にとらわれすぎている」の主旨です。

どうぞよろしくお願いいたします。
2012/11/30(金) 13:15 | URL | 建岳 #-[ 編集]
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