永正寺副住職 中村建岳が、法話を推敲する過程で考えたことや、日頃感じていることなどを、そのまま素直に表現するブログ。

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臨済禅師の悟り

2012.3.10
⇒前回からの続きです。

私が副住職としています、
永正寺の宗派は、

臨済宗妙心寺派です。

その
臨済宗の開祖は、もちろん「 臨済禅師 」なのです。
ちなみに、
中国の人で、生年は?ですが亡くなった年は西暦867とのことです。


臨済宗では、
師匠から悟りの免状を代々受け継いできた祖師方の
お話されたことやエピソードが、「 語録 」として残っています。


臨済宗の開祖である「 臨済禅師 」の
臨済録 』は、臨済宗のバイブル!?として最も大切なものです。


しかし、
例えば
『 僧 「 達磨大師がインドから中国へやってきた意図は何ですか? 」
  臨済禅師 「 もし、何かの意図があったとしたら自分さえ救うことも出来ぬ。」
  僧 「 何の意図もないのでしたら、どうして達磨大師の弟子悟りを得たのですか? 」
  臨済禅師 「 得たというのは得なかったということなのだ。 」  』


のようなお話があって、
一体このお話の意味するところは何なのか?

その解釈をしようとした途端、
まさに、
仏教への理解力や人間力、いわゆる境涯が問われることになって、

実際問題、
僧侶も、専門家もその対応が難しく、
悟りとは、言葉では伝えられないものだから・・・、
  あえて言葉で解釈をしようとすると、このように考えられる・・・ 」
というものになってしまいますし、

ですから、
さまざまな解釈、理解があるような形にもなっています。


もちろん、
私がこれからする
『 臨済録 』のお話も、その範疇のものになります。


さて、
臨済禅師が『 臨済録 』で言っていることは、
悟りを求める多くの修行僧を前にして、

悟りとは、自分の外に求めるな、そして、自分の内にも求めるな
  今、そのままのことなのだ 」
「 これが良いとか悪いとか分別をすること自体が、すでに悟りから遠ざかっている

ということを、繰り返し繰り返し、
述べているのだと思います。


そして、
この『 臨済録 』には、臨済禅師が悟りをひらいたエピソードがあります。

そのエピソードとは、
『 臨済禅師師匠・黄檗のもとで悟りを目指して真面目に修行をして3年経った頃、

  先輩から「この3年のうち師匠に悟りについて尋ねに行ったことがあるか?」と聞かれて、
  臨済禅師「ありません。何を質問するかもわかりません」
  先輩「どうして、仏教の根本義を聞いてこないのだ!」と言われた臨済禅師、

  早速、師匠・黄檗のもとへ。
  すると質問が終わりきらないうちに師匠・黄檗棒で何発も叩かれます

  先輩にこの顛末を話すと
  「 念のため、もう一度聞いてきた方が良い 」といわれもう一度

  するとまた、師匠・黄檗に何発も叩かれます

  こうして3度聞きに行って3度とも何発も叩かれた臨済禅師は落ち込んで、先輩に
  
  「 せっかく師匠・黄檗へ尋ねに行くことを勧めていただきましたが、
    3度行って3度叩かれました。残念ながらその奥義を悟ることができません。
    下山しようと思います。」

  と挨拶して、修行寺から出ていきます。
  出ていく時に師匠・黄檗に挨拶に行った際、「大愚禅師」のところへ行くことを勧められます。

  その「大愚禅師」のところで臨済禅師は師匠・黄檗とのやりとりの顛末を説明します。
  「 私は、三たび仏教の根本義を問うて三たび叩かれました。いったい私に落ち度があったのでしょうか? 」

  それを聞いた大愚禅師
  「 師匠・黄檗がそれほどまでに親切に教えてくれているのに、その上ワシのところまできて、
    落ち度があったかと聞くのか? 」
  
  そう言われた瞬間、臨済禅師ハッとして悟ります
  「 師匠・黄檗のいわれたことはそういうことだったのか! 」  』


さて、皆さん、
このお話、
一体どのような意味なのでしょうか?

臨済禅師は何を悟ったというのでしょうか?
<続く>





関連シリーズ
⇒「 もうひとりの自分・無意識 」





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コメント
そのまま
311から一年経ってしまいました。
春の気配もなんとなく物悲しいものに思えてしまいます。

臨済禅師の悟り、ぜひとも続きを読みたいと楽しみにしております。

それと関係があるかはまだわからないのですが。
先日、イスラム教の導師がテレビでクルアーンの講義をしていました。ある章にある説話についてでしたが、そのなかで「そのままであれ」という言葉が出てきました。
すると何故か涙が出てきたのです。クルアーン解説はアラビア語とトルコ語が交ざっていて私には難解なため全部はまだ理解できないのですが、その部分だけが心に突き刺さったようで離れないのです。
無意識や自在というものとどこかで繋がっているのでしょうか。

また、おたよりします。
2012/03/11(日) 22:46 | URL | あやみ #-[ 編集]
Re: そのまま
あやみさん
コメントありがとうございます。

臨済禅師の悟り、
表現しようと思ったものの、一体どうなるのか、
自分自身の思考の中で格闘してみようと思っています(汗)

そして、
宗教の究極的な目的とは、癒しとは、
やはり、同じものなのかと感じます。

その過程が違いすぎてしまって、(信じる神が違うなど)
かえって、苦しみが増してしまうこともありますが、

人間が苦しみから解脱する上で、
「そのままでいい」と心の底から理解すること、
あるいは、「無意識の問題」は避けて通れないのではないかと思っています。

3.11から一年。
私たちは、今、立ち止まって、
見つめなおし、考えなければならないのではないかと感じています。
2012/03/12(月) 09:12 | URL | 建岳 #-[ 編集]
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