永正寺副住職 中村建岳が、法話を推敲する過程で考えたことや、日頃感じていることなどを、そのまま素直に表現するブログ。

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永正寺護持会報108号

2012.11.3

永正寺護持会報108号ができました!


よろしければPDFファイルでご覧ください♪
kaihou1081
kaihou1082

PDFファイルはこちらから →永正寺護持会報108号



私が書いているところは(岳)としてあり、
住職の場合は(定)としてあります。



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信じることの本質、自己肯定と他者否定

2012.11.5
⇒前回からの続きです。


S島は、我がA国の領土です。 」
「 それは違います。B国の領土に間違いありません! 」

「 いや、この歴史的証拠があるからA国の領土なんだ! 」
「 それは捏造で、もっと古い資料があるからB国の領土です。 」

「 捏造という証拠はない。そもそも国際法上・・・ 」
「 だいたいあなたの国の教育が・・・ 」


というような領土問題についての論争が日本と隣国で起こっています。


そもそも領土とは、
あるいは国家というものも、

初めからあったわけではなく、さまざまな変遷を経て現在に至っているので、


「 どの時点で、何を基準に判断するのか? 」


という判断基準について徹底的に合意をする話し合いを行わないと、

当事者同士が何を言っても、感情的になってしまったり
堂々巡りを繰り返してしまうのは明らかです。


ここでは、
実際の領土問題について考えるつもりはありません。


このような
利害関係のある他者に対する、

共通理解、妥協点を探って、
合意をしていく行為は、


ある意味、
数学最大公約数を求めることに似ています。


例えば、 48  60  84  と3つの数字があった場合、

共通の数字で割っていきます。

 2 )_48  60  84
 2 )_24  30  42
 3 )_12  15  21
     4   5   7


最初はとても違う数字でも、
2×2×3 は共通(最大公約数)で、最後に残った4、5、7というわずか!?な違い



s島は A国 B国 C国 の領土だ!についても

近代国家が成立した西暦1×××年以降で考えよう  )_A国   B国   C国
その後、最初に領有していた国の領土としよう    )_A国'   B国'   C国' 
                          A国''  B国''  C国''



など共通因子を見つけ出していく作業を経て、
合意形成を目指していくものです。


さて、
長くて分かりにくい前置きで恐縮ですが、


このように、
意見が違って、利害関係がある場合、
お互いの 共通点や妥協点 を見つけあっていくことが


合意する上で最も大切なことなのです。


しかし、
このような論争をしているさなか、


「 私は、S島を私の国の領土だと『 信じている 』! 」

などと主張する場面がしばしば!?見うけられます。


身近な話など、
あらゆる論争!?で、「 私はこれを信じている。・・・ 」
という場面もありますが、



私は48を信じている。 僕は60を信じてる。 俺は84を信じている。



それでは、もうそこから
共通項を探り当てる余地がなくなってしまいます。


私が48を信じているから、私の意志を尊重してほしい
私が48を信じているから、あなたは従うべきだ
実際に言葉には出さなくても、この主張をしていることとほぼ同じです。



実は、
信じること 」自体が持つその本質とは、

自己肯定宣言であると同時に、他者否定なのです。



神でも仏でも、哲学でもポリシーでも、

信じるものが違えば、
分かり合うことはありえません


住み分けは可能ですが・・・。



宗教の違いによる争いは、
歴史の上で幾度となく繰り返されていますが、


それは、

そもそも他者理解不能
信じること 」を拠りどころにしているからなのです。
<続く>




※当然のことながら、このブログはあくまで私の個人的な解釈です。




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太陽は、地球の周りを回っているのか?

2012.11.8
⇒前回からの続きです。

説明するまでもないのでしょうが、
ガリレオ・ガリレイ

地球が太陽の周りを回っていると主張した事が罪にとわれ、
裁判で有罪となりました。
その際の、
それでも地球は回っている 」といわれる言葉が有名です。


そして
ガリレオ・ガリレイの死後、350年を経た1992年
ようやく教皇が裁判の誤りを認め謝罪をしました。


天動説地動説


科学が発達していない当時のことなら仕方ありませんが、
現実は明らかに地動説が正しいのに、


どうしてこれほどまでの長い間
その正しさを認め、誤りを謝罪することができなかったのでしょうか?


それは、まさに、

太陽が地球の周りを回っていると
信じていた 」ことに深く関連しています。



信じていること 」を否定することは、
信仰への冒涜であり、神への冒涜となってしまいます。


例え、「 現実 」を突きつけても、
それを素直に認めることがなかなかできないのが、信仰の問題です。


なぜなら、
信じること 」とは、
その内容の真偽について検証しない立場であり、

そもそも
その信じることを思考の出発点とするものだからです。



「 太陽は、地球の周りを回っていると信じている 」


この考え方自体を拠りどころとして、
それを現実で検証するつもりも検証する必要もないという立場。


現実よりも、
信じることを優先する立場。


これはつまり、
信じることとはある意味、
現実無視宣言 」なのです。



の存在を信じる 」
○○仏の存在を信じる 」

日常的な会話!?、議論の場でも、

クジラは食べてはいけないものだと信じているから・・・ 」
は食べてはいけないものだと信じているから・・・ 」


ナチスは、
ゲルマン民族の優位性を信じて 」いました。



私たちは、
信じる 」という言葉を使う瞬間に、

本当にそれが現実なのか?
何故それが正しいのか?

など、
現実との検証を止めてしまうものなのです。




現実に根拠をもたない、
現実に拠りどころをもたない、


「 信じる 」という行為と内容が、


もし違ってしまって、
しかも利害関係で対立してしまったら、
あるいは、
信じていることの内容がひどいものであっても、


検証のしようがないのが

信じる 」という行為の本質です。


宗教の危険性は、

まさに、
この検証不能な「 信じる 」という行為を拠りどころとするところにあります。
<続く>




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そして仏教。

2012.11.11
⇒前回からの続きです。


これまで、
宗教の危険性、そして、
その共通の仕組みである「 信じることの危険性 」について述べてきました。


信じること 」は、
個人の中の範囲内で神聖なものであり、
心の拠りどころや行動の推進力の源になるものですが、

ひとたび
「 信じること 」が
周りの人にまで影響させようとすると、

その「 信じること 」が持つ特性によって、

必然、
エゴとエゴのぶつかり合いになってしまい、

しかも現実に根拠を持たないもの同士、
堂々巡りの争いを巻き起こしてしまって、


これまで幾度と無く、
歴史の上で血で血を洗うような争いが繰り返されてきました。


また、現在進行中の苦しみも存在しています。


私たちは、
そろそろその「 信じることの危険性に気づいて、
宗教が持つ危険性に、
真剣に向き合わなければならないのではないでしょうか?


という主旨のことを述べてきたつもりです。



さて、
そして仏教です。


仏教とは、禅とは、
もし、それを一言で端的に表すとすれば、


何にもとらわれないでただ現実を生ききる境地 」を目指すものです。


つまり、
信じること 」にもとらわれずに、現実を生きることを目指すのです。



ありのまま 」「 」の境地など、
仏教を表す象徴的な言葉がありますが、

私たち人間がつい持ってしまう「 こだわり 」「 とらわれ 」など、
そのようなものを無くしてしまうから「 無 」なのです。

実は、
仏教が拠りどころとしているものは「 現実 」です。


そして、
現実 」を「 ありのまま 」に見て、理解するように努めましょう。

それが、
私たちが「 苦しみ 」を克服する道であって、
そもそも、
私たちが思いを持ってしまうことから「 苦しみ 」が生まれてしまうのです。

その「苦しみ」生み出してしまう仕組みについて理解を深めましょう



私たちが苦しんでしまうのは、
「 正しい神 」を信じていないからではありません。


何故、私たちが苦しんでしまうのかという、
その現実のメカニズム、仕組みについて理解を深めていくことで
「 苦しみ 」の克服を目指すという教えでもあるのです。



このような仏教に興味をもたれた貴方!
これからも、是非一緒に考えていきましょう♪




< このシリーズは、
  これで一区切りです >




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濃い味かうす味か?

2012.11.14


一口、料理を食べた瞬間。


「 全然、味がしないな~ 」

なんだか物足りない。
醤油ソースコショウをかけて、
ようやく味がする。


どうせ食べるなら
味がはっきりしている濃い味付けにしたいっ!



でも、
濃い味付けの料理は、

どうしても塩分が多くなってしまうので、
後々、様々な健康の不安を抱えることになりかねません。



私たちは、常に!?、
「 美味しいものを食べたい 」と思っているのですが、
節度を保った味付けにすることが大切です。



濃い味の刺激ばかりを追い求めてしまうと、

辛いもの、甘いものなど、
調味料を大量にかけてしまうことが、
どんどんエスカレートして、


結果、
大味のものばかり、味覚障害のような状態になりかねません。
そして、大切な健康を損なってしまうことがあります。


私たちは、
もっと美味しいもの、
もっと楽しいこと、
もっと充実したこと、
もっと夢中になること、
もっと面白いこと、
もっと幸せになること、
もっと感動を!


など、
常に刺激を求めているものですが、


実は、
それらの刺激を得られれば得られるほど、
その刺激に対して鈍感になり


よりもっともっと過激なものを求めてしまうものです。


そんな生活と価値観に
どっぷりつかってしまっている私たちは、

すでに刺激中毒の症状です。


これが
私たちの今の暮らしを息苦しくさせている一因だと思っています。



さて、
日本の伝統的な価値観!?に
侘び 」「 寂び 」などがありますが、


これは実は、
うす味の妙です。


どんどん刺激を追い求めていくのではなく、


うす味の中での
微妙な味の違いを楽しむこと。


感性を研ぎ澄ませて、その僅かな変化に驚きを発見していくものです。



これは、
仏教でも同じです。

坐禅をして、心を落ち着かせ
いたずらに刺激や欲望に踊らされないように心がけ、

感性を磨いて、
現実のありのまま愛で楽しむものです。


少欲知足
吾れ足るを知る
の境地とは、


我慢をして現状に満足しましょうという意味ではなく、

瑞々しく生き生きとした心をつくることなのです。




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