永正寺副住職 中村建岳が、法話を推敲する過程で考えたことや、日頃感じていることなどを、そのまま素直に表現するブログ。

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今日からブログを始めます。
今自分が考えていることを上手く表現できるといいなと思います。
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小沢一郎氏強制起訴、進退問題について思う

小沢一郎氏が強制起訴され、その進退問題あるいは民主党の処分が取りざたされている。

今後少なからず明らかになるであろう事件の内容はひとまず置いておき、私が素朴な疑問を感じるのは、起訴された時点で責任問題が発生するのか?である。もちろんこの疑問は、今回の事件に限ったことではない。私が以前勤めていた会社では「わいせつ罪等の起訴」が「解雇事由に該当する」と「就業規則」に定めてある。これを目にした当時から疑問を抱き続けていたのだが、現在社会通念上妥当とされている!?「起訴=即、責任問題」は果たしてこのままで本当に良いのだろうか?

まず最も単純に考えてみれば、もし無実の人が冤罪などで起訴されてしまった場合、裁判で「無罪」を勝ち取った時点で、起訴されたことによって同時に背負わされた社会的制裁(責任問題)の不利益を、どこまで回復することができるのだろうか。厚労省の村木さんは幸運にも!?元の職場に復帰を果たしたが、一般人でも同じようになるだろうか?

いやそもそも、起訴された時点で「ほぼ有罪」とみなし社会的制裁を加え、裁判判決結果が出た時点でまたその社会的制裁を修正するという「2段階判断」を、何故する必要があるのか?

起訴された時点では(起訴されたとはいえ)最終的に罪が確定したわけではないので一切の社会的制裁は「保留」とし、判決が出た時点ではじめてその罪に応じての社会的制裁を加える、責任をとる ではいけないのか?

起訴時点での責任追及はいわば「勇み足」であり、「余計な問題」を引き起こす悪習である。

しかも今回の小沢氏の強制起訴については、検察が起訴しなかったものを審査会判断の結果、起訴になったという
、これまでとは明らかに判断基準の違う起訴であり、当然その責任問題追及については慎重に取り扱うべきだと思う。すぐに責任を取るべきとの主張は軽率だと思う。

司法制度は国の根幹をなす制度であり、今変化していく過渡期でもある。
今後注意して見ていきたい。

「六道」

法話を入門から順序良く理解しやすいように体系的に話してみたいとは思います。
その前提として必要な自分自身の仏教に対する理解と思考の体系化がまったく不完全で未熟なまま、思いつくテーマから書き出していきます。仏教そして禅に対する自分自身の理解が、いつか再構成して体系化できるほど、深化していくように期待しています。
さて、表題の「六道」は、今年の5月に臨済宗黄檗宗合同高等布教師講習会に参加した際の私自身に課せられ発表を行った課題の一部です。当面はこの講習会の課題がとっかかりになると思います。

「六道」とは地獄餓鬼畜生修羅人間の6つの世界を言います。
地獄といえば閻魔さま。針の山地獄や煮えたぎる湯や炎、そして地獄の鬼が大活躍する苦しみの極まった世界です。子どもの頃地獄の話を聞いて恐ろしかったことを微かに覚えています。
餓鬼とは、飢えと渇きに苦しむ世界です。ようやく手に入れた食べ物や水が口に入ろうとする瞬間に燃えてなくなってしまうと言われています。なんて苦しいんでしょう。お腹が膨れた餓鬼の絵は一度見たら忘れられない衝撃があります。
畜生は、けだものの世界です。貪欲、淫欲に振り回されます。本能のまま本能のみで生きていますが、これも苦しみの多い世界と言われています。人間などに使われ、利用される存在です。
修羅は闘争してやまぬ者、争う生存者といわれます。この世界も苦しみが多いとされています。
人間は、私たちが住む人間世界です。苦しみと楽しみが半々といわれています。みなさん苦しみと楽しみ半々で過ごしていますか?
そしては、楽しみのみの世界です。

私たちは生きている時の行いによって(行いが良ければより上の、悪ければより下の)、次に生まれ変わるステージが変わっていくと言われています。そして永遠にその生まれ変わりつまり輪廻転生を繰り返していく。これを六道輪廻といいます。

仏教の究極の目的って知っていますか?

この苦しみが無くならない六道輪廻のサイクルから抜け出すこと が究極の目的なんです。六道輪廻からの「解脱(げだつ)」です。別の言い方をすると、「悟りを開く」と六道輪廻のサイクルから抜け出すことができる ということなんですね。

では六道輪廻のサイクルから抜け出して、一体どのような世界に行くというのでしょう?
それが四聖の世界と言われています。<続く>

「四聖」

続きです。

四聖」とは、4つの聖なる世界のことです。仏教の究極の目的とは、迷いの世界とも言われている六道を永遠に廻りめぐる六道輪廻から、この四聖の世界、いわば悟りの世界へ到達することなんですね。

ではその4つの聖なる世界とはどんなところでしょうか。

これらは単に、悟りの世界として一つの世界としてまとめていいかもしれないと個人的には思います。それでも4つに分かれていますので説明しますと、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩、仏という4つの世界です。

声聞は仏の声を聞いて悟るものが住む世界です。縁覚は自らひとり悟るもの、つまり悟りには至ったけれども、その悟りの境地をほかの人に広めようとしないんです。人々を救おうとする前段階の世界です。菩薩は未来の仏の世界です。仏になることは約束されているけれども、あえて人々を救うために、仏にならないで私たちにより近い立場で修行するものの世界。そしては自らも悟り他人をも悟らせつつある人です。

阿弥陀如来(如来は仏の別名です)や弥勒菩薩など、仏や菩薩像はよく目にしますが、声聞像や縁覚像は見たことがないですね。もちろん信仰の対象にならないのでしょうが・・・。

この悟りの世界が4つにわかれているのは、大乗仏教の考え方が反映されているのですね。
大乗仏教とは・・・と、説明しだすと話の本質からそれますので、また別の機会にしたいと思います。
ちなみに、六道と四聖をあわせて十界として六道十界といったり、六道四聖とも呼ばれることもあります。

話を戻しますと、仏教の究極の目的とは、迷いの世界六道輪廻の悪しきサイクルから抜け出して、この悟りの世界へ到達することなんです。

ここでみなさん。悟りの世界とは何か。4つの悟りの世界を説明したところですぐイメージが浮かぶようにはなかなかならないと思います。なるはずがありません。比較的、六道については身近に感じられイメージも持ちやすいのに、悟りの世界については、まず「悟り」というものを理解しなければならないからです。

でも、その悟りの世界のイメージの話の前に、もっと根本的なそもそもの話をしなければならないと思います。
私たちが今後生まれ変わりを繰り返して、いつか悟りの世界へ・・・というと、すいぶん気の遠くなるような話の気がします。悪いことをして地獄に落ちることはいやだし、できれば天に生まれ変わりたい。その先のことはよくわからない。悟りの世界?まぁよくわからないしいいか。 ということになりかねません。

この六道十界は、これから数百年とか数万年とか長ーいスパンで考えて悟りの世界へいけたらいいねというものではないんです

今生きている私たちに突きつけられている問題なんです。<続く>

トラです

とら1
お寺の住人が自己紹介。ちっともなついてくれません。

「トラです。トラ柄だからトラです。僕の家(お寺)はとても広くて遊び場所や隠れる場所がたくさんあって、とっても面白いよっ♪戸を開けて中に入っていくと、知らない男の人がいるけど誰だろう?でも怖いから近づいてきたら逃げるんだっ。そんな僕の楽しみは仲良しのチビチビと遊ぶこと。いつも二人で飛び回っているんだよ。あと魚が大好き。とっても美味しいー♪」
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